やどるもの.

幼いころから「物」には命があると思っている。
今も、そう。

はじめてそう思いだしたのは、小学校1年生のとき。

家族に買ってもらった、黒の補助輪のついた自転車。
(ふがいないことに、その自転車につけたはずの名前を僕はもう憶えていない。)

自転車のハンドルやベルに、そっと手をあてて「いい子だね」ってほめたり
休日、父親に教わったばかりのさび止めのスプレーを吹きつけて
チェーンをからから回して「はやく良くなってね」といたわったり
異常なほどの溺愛っぷりでその子を大切にしてた。

でも、別れは唐突におとずれる。

1年生になったばかりの春(つまり、買ってもらってすぐ)
僕はその自転車に乗って道路に飛び出し、交通事故に遭った。

自動車との衝突のショックで意識をうしなっていた僕が
眼を覚ましたときには既に救急車のなかで、
「事故だけは起こさないでね」と言い続けていた母に
うわごとのように「ごめんなさい」と謝り続けていた。

すごくすまなかったのだと思う。
自分の足が折れていることも忘れてずっと謝っていたのを僕ははっきりと憶えている。

そこからは長い長い病院生活。

大切にしていた自転車と再会したのは
50日を超える入院を終えて自宅に戻ったときだった。

事故の検証のために自転車はずっと残されていた。
かごはなく、フレームはゆがみ、
車がぶつかったと思われる前輪は大半のスポークがはずれていて
例えるなら筋肉の内側から骨が飛び出しているかのようなありさまだった。

とにかくすごく泣いた。
何回も何回も謝り続けた。

修理してって言っても
「できないよ」って
父親に言われて
母親にも言われて

どうにもできなくて、しばらく経ったあとに、その自転車とはお別れした。

…恥ずかしながらいまの年齢になっても
僕は「物」とは共生してきた仲間や友達みたいなもので
落としたら痛みを感じていると思ってるし、撫でたら喜ぶと思ってる。

想像力って、それくらい強くていいんだと思ってる。

それでも悲しいのは、未だに守りたい人を守れるほどの想像力にはほど遠い、ということ。


目の前だけ見ていればいいんじゃなくて
見えないものをもっと強く感じ取れたらいいのに、って思う。